ゲイでノンセクシャル~人生の雨宿り~

雨ばかりの人生に、雨宿りができる場所を作りたい

自由と平等について考えてみる

 真の平等、それはみんなが不自由なく暮らし、みんなが幸せになれる

誰もが願っている理想かもしれません。ただ、僕は真の平等というものは

少し怖い一面を持っていると考えます。

 例えば、5個のキャンディーが机の上にあるとします。

このキャンディーを先生が子供たちに配ることになりました。

もし子供が5人だったら、1人1個ずつ配れば全員が平等です。

 でも、もし子供が3人だったらどうでしょう?キャンディー5個を全部子供に

配ってしまうと、2個、2個、1個としか配れないので、1人だけ1個損する人が

出てきてしまうのです。(口の中でシェアしたり、粉々にしたりするクリエイティブな

考えは、今回はなしでお願いします。)みんなが正しく平等になるように配るため

には、3個だけ配って残り2個は子供たちが見えないところに隠しておかなければ

なりません。

 もっと困るのが子供が6人以上の場合です。人数分のキャンディーがないので、

みんなが平等にするためには、キャンディーをそもそも配らないという方法しか

ないんです。

 また、真の平等を求めるなら、先生のキャンディーの数も平等にすべきでしょう。

子供は1個ももらえないのに、先生だけ5個持っているのは不平等なので、

配れないキャンディーは、もともとなかったことにするか、他のところで

配れなかったキャンディーと一緒に集めて一斉に配るしかないでしょう。

 さっきの例では、子供がキャンディーを大人しく受け取っていましたが、

毎回そうであるとは限らないと思います。われさきにとキャンディーを欲しがる

子どもや、キャンディーは嫌いだからいらないという子供もいるかもしれません。

そこで、次は「平等」ではなく、「自由」について考えてみましょう。

 5個のキャンディーを5人で1個ずつもらった子供は、もっとキャンディーが

欲しいと感じるかもしれません。でもキャンディーはもともと5個しかありません。

ならばほかのひとから手に入れるしかないでしょう。ある人は力ずくで

奪い取るかもしれない、ある人はお金でキャンディーを買い取るかもしれない、

ある人は甘いものが苦手な人に、今度おせんべいをあげることを条件に

キャンディーを譲ってもらうかもしれません。

 外から見れば、このやり取りは平等ではないかもしれません。でも、

甘いものが嫌いな人にもキャンディーを無理やり押し付けるより、好きな人に

回してあげた方がずっとキャンディーを有効的に使えたと言えると思います。

 もちろん力ずくで奪ってしまえば、喧嘩になるでしょうし、怪我をすることも

あるでしょう。大切なのは「本人たちが納得」していれば、多少の不平等は

許されるということです。力ずくであったり、脅したりするのは、

一方が取引に納得していないと言えます。

 また、本人たちが納得していればじゃんけんやテストの点数、かけっこなど

賭け事や勝負でキャンディーを分けてもいいでしょう。そうすれば、

頑張ったひと、結果を残したひとがキャンディーを得られるので、

結果を残そうとみんなが頑張ってくれるようになります。

 じゃんけんも、勝負の前に「勝ったひとがキャンディーをもらう」と約束

しているので負けた人がキャンディーがもらえなかったと文句を言うことが

できないようになっています。

 今あげた例はキャンディーですが、これが国の税金ならどうですか?

石油やレアメタルのような天然資源ならどうですか?はたまた国の領土なら

どうですか?実際、平等を理想に掲げながらも、真の平等なんて無理だと

諦めて、自由を求めているのではないでしょうか?残念ながら、

真の平等と真の自由というものを同時に叶えることはできないのです。

(キャンディーが無限にあるのならば話は別なのですが……)

先ほどあげたキャンディーの例は、社会主義と資本主義の縮図のようなものであり、

同じようなことが、国単位で行われているのです。平等と自由、どっちが大切なのかは

社会主義の国、資本主義の国の両方があることからも、決められないということが

わかると思います。ただ、平等だけ、自由だけを追い求めるとよくないことは

事実だと思います。真の平等は、個々人の意思というものが存在しなくなりますし、

真の自由は、貧富の差や能力の差で人権が危ぶまれる恐れがあります。

 そのため、僕は「納得した上での自由を平等に守るべき」であると考えます。

キャンディーの例でいうと、物々交換や約束、じゃんけんや勝負などですね。

それを円滑に、かつ確実にするためにルールや法律があると思います。

(別に法律のセールスをしているわけではありませんよ(*´ω`*))

 最近はLGBTに伴って、ダイバーシティ(多様性)という言葉が広がっています。

「みんなが自分らしく生きる」「多様性を認めてみんなが平等の世界に」

といったキャッチコピーをよく聞きますが、この「平等」とは何でしょうか?

(自分らしさについてはこちらの記事で)

www.life-amayadori.com

 性別、人種、身分、セクシャリティ、容姿、障害、病気など様々な部分で

未だ差別が残っているこの世界が、真の平等を求めているとは思えません。

そうあったらいいね、という他人事で済ませているのではないでしょうか?

 それこそ、先生がキャンディーを隠してまで平等に配ろうとしたように、

真実を隠されたままの表面上の平等を、真の平等だと思い込んでいるのでは

ないでしょうか?「こういう人たちがいるんだ→支援しよう→良かったね」

ということでダイバーシティがあるというのは安直なのではないでしょうか?

 僕はマイノリティの1人として、表面上の平等で満足するぐらいなら、

自由を求めたいと感じます。支援を受けるということは、じゃんけんや競争を

するような同列の立場に立てていないことと同じだと思います。

 もちろん支援してくださるかたの思いを踏みにじるつもりではありません。

ただ、必要以上に特別扱いをされたくないだけなんです。

だからこそ、マイノリティの存在、実態、知識を伝えることが必要だと思います。

 名前を知らなければ、全て雑草と呼ばれてしまう草花のように、

まずは知ってもらわないといけません。そして、花が咲く植木鉢に生えたとしても、

「雑草邪魔だ」ではなく「あっナズナが生えてる」「ホトケノザじゃん」と

言われるようになるべきでしょう。あらゆる草花を雑草の一言で片付けていたけれど、

調べてみればいっぱい種類があって、ちゃんと名前もあることがわかった。

名前を知ると、憎かった雑草にも愛着が湧いてきたかも、これこそが

ダイバーシティではないでしょうか?

 もちろん雑草をすべて愛せとは言いません。とげや毒がある雑草は、

名前を知られるとなおさら嫌われるでしょう。ただ、「雑草嫌い」のように、

植木鉢に生えてきた邪魔者と一方的に嫌うのではなく、「あの草が嫌い」と

認識をして、考えたうえで嫌うのは、結果は同じでも過程が違うのです。

 ダイバーシティを理解する必要はなく、知ってもらうことが本質だと思います。

なぜなら、同じ人間同士、男同士、ゲイ同士でさえ一人一人違っていて、

理解ができないことばかりだからです。自分と違う立場の人を理解するのが

難しいのは当たり前のことだと思います。その意味でも真の平等というのは、

作り出せないものなのでしょう。

 最後に、あれほどあり得ないといった真の平等が一つだけあります。

それは、「誰しもが地球という星の民であること」です。

でも、現実は本当にみんな地球人?と思うほど分けられてしまっています。

もしかしたら、あの人はアメリカの人、あの人は中国人、あの人は黒人と

分けるのではなく、みんな地球人だとまとめられていく時代が来るかもしれません。

(宇宙人が地球にやってくると、ちょっと面倒になってしまいますが……)

もしかしたらダイバーシティなんてもともと必要がない概念だったのかも

しれませんね。