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演繹法「A=B、B=C、よってA=C」

 世の中には様々な推論の方法があります。法学の基礎とされる「法的三段論法

というのもそのひとつです。法的三段論法というのは、法律という大前提に、

事実という小前提を当てはめて、結論を導くという考え方です。

 具体例を挙げると、刑法199条には、「人を殺した者は,死刑又は無期若しくは

5年以上の懲役に処する」と書かれています。そして、誰かが人をナイフで殺して

しまったとしましょう。このとき、ナイフで人を殺すという行為は、刑法199条に

書かれている「人を殺した者」に当てはまるため、「死刑又は無期若しくは5年以上の

懲役」が結果として導くことができます。

 このように基本的には変わりようがなく、みんなが共通で認識している

(ことになっている)事実を大前提、(この場合法律のことですね)

大前提に書かれている内容をより個別的、具体的に表している小前提、

(この場合「ナイフで」人を殺したという事実です)そこから合理的な結論を導く、

これが法的三段論法の基本です。

 この考え方は、「演繹法」と呼ばれる考え方の一つです。演繹法は

「A=B、B=C、よってA=B=CでありA=C」という分かりやすい考え方をしていて、

周知の事実、一般的な事柄から結論を導く方法です。

 有名なものでは、「全ての生き物はいつか死ぬ、人間は生き物である、よって

人間もいつか死ぬ」というものがあります。

 またこの演繹法を確立したと言われているのが、「我思う、故に我あり

(コギト・エルゴ・スム)」で有名なデカルトです。

 デカルトは身の回りにある物事を片っ端から疑ってかかる「方法的懐疑」によって、

「疑っている自分自身の存在だけは否定できない」ということに気づきました。

 例えば、目の前にあるリンゴは赤い色をしているが、本当に赤い色をしているの

だろうか?もしかしたら他の人には緑に見えているかも入れない。そもそもこれは

リンゴなのだろうか?もしかしたらレモンを見間違えているのかもしれない。

そもそもこの果物は存在しているのだろうか?もしかしたら自分自身が目の前にあると

錯覚しているだけかもしれない……。

 このように、絶対にそうだと言える事実は驚くほど存在していないんですね。

「ない」ということを証明するのは「悪魔の証明」と呼ばれており、世の中の全ての

事柄を調べて、ない事を証明しない限り「もしかしたらあるかもしれない」という

可能性を否定できないんです。ただ、どれだけ身の回りのものを疑っても、今ここで

自分自身が何かを疑っている、という事実だけは誰がなんと言おうと真実です。

自分の心の中というものは、自分にしか見えないので自分がそうだと思えば、

それだけで全てを調べつくしたことになるからですね。

(ある意味で心の中というものは、一人で行う多数決みたいなものでしょうか?)

 デカルトによって、「意識」というものが発見されて、心と体は別物であるという

心身二元論」という考え方が出てきました。今でこそ、心=脳の考え、

心=自分の意識、ということは納得できますが、かつては心=心臓であり、

意識がない=死んでしまう、というように心と体が一緒になっていることが

当たり前でした。「病は気から」とも言うように、心を直せば体も治るという

東洋医学に対して、体から悪い部分を取り除く、状態がいいものと入れ替える、

という西洋医学が発展したのも、心身二元論によって体が意識を留めておく

入れ物であるから、体にメスを入れても問題ない、と考えられるようになったことが

大きいです。

 話がそれましたが、デカルトは方法的懐疑を行うにあたって、

思い込みや偏見を取り除いて、明晰である(はっきりと明らかであること)ものだけを

取り入れる「明晰性」、問題を細かく分けて、一つ一つ考えていく「分析」、

分けた問題を、簡単なものから処理していき徐々に難しいものに取り組んでいく

総合」、論理にぬけがないかを確かめる「枚挙」、(枚挙は数え上げるという意味)

という4つのポイントを基本原理としました。この原理こそが演繹法の基礎となった

ため、デカルトが演繹法を確立したと言われるようになったんですね。

 演繹法では、どの知識や前提をどのように組み合わせるのかによって、まったく

結論が変わってしまいます。

 例えば、「お米は主食だ、パンは主食だ、よってお米はパンだ」というめちゃくちゃ

な結論も、理論上は成り立ってしまうのです。これは共に「主食」という同じグループ

に属するものを大前提、小前提の両方に当てはめているからダメなんですね。

 また、「タピオカは映える、私はタピオカを飲んでいる、よって私は映える」という

推論は一見成り立ちそうなのですが、用いている事実があまりにも漠然としていて

演繹法としてはダメな使い方です。もしも「私」が女子高生であれば、タピオカが

なくても映えるかもしれません。また僕みたいに普段タピオカを飲まないような人が

タピオカを飲んでいても、あんまり映えるとは言えません。

 そのため、タピオカは映えるという大前提が、どの程度タピオカを飲むという事実に

影響を与えているのかが不明瞭であり、そもそも前提自体が間違いの可能性も

否定できません。

 このように、主観(見る人がどう感じるのか)に依存した事実を演繹法に

用いても、結局個人差がある、その人次第、と言われてしまうだけです。

 演繹法は分かりやすく、便利である一方、無理やり関係のないものをつなげたり、

あたかも正しいかのように主張したりすることもあるので、「本当にそれは正しの?」

という疑いの心を持っておくことが重要です。