ゲイでノンセクシャル~人生の雨宿り~

雨ばかりの人生に、雨宿りができる場所を作りたい

帰納法と4つのイドラ

 以前演繹法について、解説しました。

www.life-amayadori.com

 今回は、演繹法に並んで有名な「帰納法」について解説したいと思います。

帰納法は、「実験、観察などから集めた事実、経験から一般法則を導く」という

演繹法とは反対の考え方ですね。(演繹法は一般法則→個別の事実なので)

 例えば、町中を歩いているとたくさんのカラスを見かけました。

偶然なのか、見かけたカラスは全て黒い羽をしていました。この観察結果から、

「全てのカラスは黒い」という条件を導くことができます。

 実際にはアルビノのように、黒くないカラスも存在していると思います。

ただ、10匹全部が黒いカラス、100匹全てが黒いカラス、1000匹全てが黒いカラス、

というように母数を増やすことによって、「カラスは黒い」ということを、

世界中の全てのカラスを調べなくても導くことができるのです。

 演繹法の記事でも触れていますが、「存在しない」ということを証明することは

悪魔の証明と言われていて、世の中のもの全てを調べないかぎりは、存在するかも

しれないという可能性を否定できません。ただ、おそらくこうであるだろうという

推測を合理的に行うことができるのが帰納法です。

 この帰納法を唱えた人はフランシス・ベーコンという人で、ベーコンは帰納法を

行う上で気を付けるべき障害を「イドラ」と呼びました。「イドラ」は簡単に言うと、

先入観や偏見のことで、大きく分けて4つのイドラがあります。

 1つ目は「種族のイドラ」で、人間の本能に根ざした偏見のことです。

地球は動いているようには感じないから、周りの天体が動いているという天動説や、

目の錯覚などがその例です。

 2つ目は「洞窟のイドラ」で、狭い洞窟の中に閉じこもっているかのような

個々人が持っている誤りのことです。これは過去の経験や教育、環境が大きく

影響しているとされており、「井の中の蛙大海を知らず」という似たような言葉も

あります。

 3つ目は「市場のイドラ」であり、人から伝え聞いたこと、見聞きしたもの、

言語や文字が招いた誤解のことであり、うわさや言葉のあやなどが例です。

 4つ目は「劇場のイドラ」であり、劇場の出来事を本当のことと錯覚してしまう

ように、権力や伝統を鵜呑みにして信じ込んでしまうことです。

例えば、先生が言っていることは正しい、教科書に書いているから正しい、などです。

 ベーコンは、この4つのイドラを取り除いて、初めて真理にたどり着けるのであり、

人間は自然に仕えて、自然から観測して知り得た部分のみを実行・理解すべきだと

述べています。そしてそこから知り得た知識があって初めて思考ができるのであり、

知は力なり」という言葉を残しています。 science の語源が、ラテン語の

「知識」を意味する scientiaであり、科学とは知識から始まることを意味してい

るのでしょう。

 情報に溢れている現代において、帰納法はあらゆる場面で用いられています。

例えば、コンビニやスーパーでの買い物の履歴、その日の気温、天候、時間帯など

さまざななデータを分析することで、「雨の日には傘が売れる」「寒い日には

温かいものが売れる」といったことを導いたり、「風が吹けば桶屋が儲かる」

「ツバメが低く飛ぶと雨が降る」のような経験則でしかなかったものが、

分析によって科学的に明らかになったりしています。

 ただ、情報が大量にある分「イドラ」が生まれやすくなっているのも事実です。

 人間は男女で結ばれるものだと信じ込んで「種族のイドラ」となっていませんか?

自然界には同性で結ばれること、雌雄同体の生き物、性転換を行うもの、

様々な性のあり方があります。男女で結ばれることは人間がそうであるという

「種族のイドラ」でしかありません。

 ネットで調べたことを信用して、「洞窟のイドラ」となっていませんか?

「百聞は一見に如かず」というように、実際に体験せずに知り尽くすことは

不可能に近いと思います。やろうと思えばgoogle mapで世界旅行ができる時代です。

自分は何でも知っているという思い込みが足元をすくわれるかもしれません。

 テレビやメディアで知ったことが「市場のイドラ」となっていませんか?

実は物事の一部だけを切り取って、印象操作が行われているかも知れません。

テレビやメディアには少なからず主観が入り込んでしまいます。

自分が得た情報の方が信用できるんじゃないですか?

 「科学的に証明されています」という言葉が、「劇場のイドラ」となって

いませんか?科学が発展すればどんな問題でも解決できると信じ込む

「科学信仰」というものがあります。科学を絶対的に捉えてしまうと、

物事の本質が見えなくなってしまいます。宗教と化学は本来相反するものであり、

科学が神の存在を否定してきたのです。その科学を新たな神としてしまうのは、

同じことの繰り返しではないでしょうか?

 演繹法が文系的な考えであるとすれば、帰納法は理系的な考え方です。

ただ、文系と理系と分けること自体が演繹法と帰納法の本質から外れてしまって

います。色々なことを知っているということは、それだけで思考の幅がひろがるから

ですね。実際、ベーコンは様々な実験を行って知識と経験を得ようとしたそうです。

皆さんも興味がない分野にチャレンジしてみましょう。

 本当に余談なんですが、ベーコンは、冷凍方法を考える中でニワトリに雪を

詰めていたら体を冷やして死んでしまったそうです。また、デカルトも朝早くから

講義を行っていたことで、風邪をひいてしまい死んでしまったらしいです。

あんなにも頭のいい人たちですら自らの死を見抜けなかった「冷え」ってやっぱり

恐ろしいんですね……