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西洋:善と悪 東洋:陰と陽

 先日、正義って何だろうという記事を書きました。

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この記事を自分で読み返したり、頂いたコメントに返信する中で「二元論」に

対する、東洋と西洋の認識について思うことがあったので、記事にしたいと思います。

 そもそも「二元論」とは、物事をざっくり2つに分けてしまう考え方のことで、

「正義と悪」「○か×」「光と影」「男と女」みたいに、対になる2つの物

並べることが多いです。

 西洋では、二元論は「天国と地獄」「聖と俗」に代表されるように、

宗教的な影響を受けて、きっぱり分ける傾向にあります。明確な境界線を引くことに

よって、雑多である現実というものを理解できるようになるのは間違いありません。

 例えば、「花」と「草」の違いは何でしょう?「犬」と「猫」の境目は?

どちらも「植物」、「動物」ですし、「生物」として見れば全部一緒です。

 でも、「動いていないから植物は動物じゃない」「花弁と呼ばれるものがない

ものは、花とは呼ばず草と呼ぶ」「ワンと鳴くのが犬、にゃーと鳴くのが猫」の

ように「定義」を与えることで、世界を切り分けることができるようになります。

 ただ、切り分け方によっては捉え方も変わってしまいます。

例えば、タヌキは英語では「raccoon dog」と呼ばれ、犬の仲間として認識されて

います。日本では基本的には「牛」としか呼ばないけれど、英語には

「cow(乳牛、雌の牛)」「cattle(家畜の牛)」「bull(去勢していない雄の牛)」

「ox(去勢した雄の牛)」のように細かく使い分けがあります。季節に関する言葉や、

雨や天気の言葉が日本に多いのも、環境や気候が影響しているのです。

 このように、言葉によって定義を与えて、分からなかったものから一部を

切り取って、新たな存在として命を吹き込むことは、西洋の考えがあったからこそ

できたことだと思います。(ちょっと言語論みたいな内容ですね)

まさに「白黒はっきりつけたがる」と言い換えてもいいと思います。

 一方、東洋にも「陰と陽」という二元論が存在しますが、「善と悪」を

全くの別物と捉える西洋と違って「陰があるからこそ陽がある、陰と陽は混ざり合う」

という考え方をします。

 というのも東洋もとい仏教には、「輪廻転生」「諸行無常」といった考えが

広まっており、人生には、天国と地獄のような終着点はなく、生まれ変わって

繰り返しているという「輪廻転生」、(涅槃や極楽浄土という例外はありますが)

世の中の物は全て移り変わっており、何一つとして永遠にとどまることはできない

という「諸行無常」、どちらにしても「絶対」というものを否定する考えです。

 そのため、絶対神が存在し、「善こそが素晴らしく、悪こそが滅びるべき」という

西洋とは異なっていて、孟子の「人は生まれつき善である」という性善説、

荀子の「生まれつき悪である」という性悪説にしろ、その後の環境や指導によって

善にも悪にも変化してしまうという考えが生まれました。確かに「二元論」では

あるものの、東洋には中間というものが存在しているのです。

 そのためなのか、日本では「間」というものが重視される傾向にあります。

西洋が噴水のように絶え間なく、時間や空間が流れ続けているとすれば、

日本では、ししおどしのように途切れつつも、その間を趣として楽しむのです。

豪華絢爛な西洋と違って、日本では余白が残ったわびさびの文化です。

足し算の西洋、引き算の東洋」と言ってもいいのではないでしょうか?

 このように、西洋が「絶対」なら、東洋は「相対」で物事をとらえることが

多いのです。ものが1つでは「間」というものは存在しませんからね。

 また、西洋では「悪は切り捨てるべきもの」であるのに対して、

東洋では、「苦しみや煩悩があってこそ悟りが開ける」と受け入れるところも

異なっています。これは医学にも影響を与えており、悪い部分を切除して、

良い部分を残そうとする西洋医学、体が持っている自然治癒力を引き出すために、

良いもので悪いものを鎮めようとする東洋医学、まさに「善と悪」に対する

それぞれの思想が見えますね。

 前回僕が述べたことは、まさしく絶対的な概念である「正義と悪」を、

相対的に捉えようという試みです。「こういう行為は正義」「こうだから悪」と

決めつけるべきではないということです。

 例えば、ビルから飛びおりようとしていた子どもを助けることは、

命を救ったという誰もが認める正義の行為でしょう。でも、その子どもが本心から

死ぬことを望んでいて、その意思を阻害してしまったのならば、悪の行為としての

責任がないとは言い切れません。

(Mr.インクレディブルで似たような問題が出てきたのをふと思い出しました)

もちろん命を救うことは常識的に考えれば正義でしょう。でも、この常識が

間違っていたらどうですか?今でこそなかなか受け入れられない同性愛も、

かつての日本では公然と存在していたのです。世の中には同性婚が認められている国も

あれば、同性愛そのものが死刑になる国だってあります。世界や時代が変われば

常識も変わります

 「みんながそう言っているから」「それって常識だから」というのは、必ずしも

「正義」であるとは限らないのです。それは多数派だからという力によって、

無理やり抑え込んでいるだけだと思います。

 「正義=強者」であっても、「強者=正義」ではないのです。むしろ強者である

からこそ、弱者よりもずっと強大な悪になりうる可能性があります。

 大切なのは自分がどう考えるのか、相手がどう感じたのかという「ミクロな視点」と

周りの人はどう思うのか、世間一般ではどうなのか、海外から見ればどうなのか、

という「マクロな視点」の両方の視点から、物事を見つめてみることだと思います。

熟考しないまま短絡的に「正義」を振りかざし、「悪」を消し去ろうと

することをやめるべきなのです。「正義=善」とも限りませんし、(正義の象徴

ある、裁判官も間違えることはありますし、警察官が罪を犯すことだってあります)

「悪=正義」となることだってあるのです。(「他人の物を壊してはいけない」という

ルールを破ってでも、ガレキの下にいる人を助けることは、悪=正義ですね)

 発想を「絶対化」せず、ケースバイケースによる「相対的」なものとして捉える

柔軟な発想こそ、これから求められていく考えだと僕は思います。