ゲイでノンセクシャル~人生の雨宿り~

雨ばかりの人生に、雨宿りができる場所を作りたい

「素の自分」って何だろう

 学校や仕事、友達や家族、人と関わる所には必ずと言っていいほど存在する

ものが「人格の変化」です。いつもは明るい性格なのに、授業中はとっても静かに

なる、上司の前では優秀そうに見えて、実は裏では面倒くさがり、恋人といるだけは

人が変わったかのように甘えてくる人、とにかく色んな所で人格というものは

変化しています。時々、「素の自分を出したい」と感じることもあるでしょう。

 でも、そもそも「素の自分」とは何なのでしょう?また一切猫をかぶっていない

本来の自分」って何なのでしょう?

 社会の中で生活していれば、「肩書き、役職、レッテル」というものが

付きまとってきます。学校の先生(男の人を想定します)は、教室にいる時は

「先生」、職員室にいる時は「職員」、同じ教科の先生と話すときは「同僚」、

校長先生と話している時には「部下」(必ずそうとは限りませんが)、

家に帰れば「夫」もしくは「父」でもあり、「息子」「おじ」「弟」かもしれません。

 また、いつも赤いネクタイをしていれば「赤いネクタイの先生」、眼鏡をしていたら

「眼鏡の先生」、担当教科が国語なら「国語の先生」、身長が高ければ「巨人」、

筋肉もりもりなら「マッチョ」と呼ばれるかもしれません。

 このように、人を表す言葉はたくさんあって、どれも同じ人を指しているんです。

でも、周りの人から呼ばれるこれらの「先生を表すもの」は、間違いなく

「先生本人」であって、どれ一つとして欠けてはならないものであると思います。

 例え、先生自身が「俺はマッチョの先生じゃなく、国語の先生だ」と思っていても、

周りが「国語の先生」と呼んでいる限り、国語の先生というレッテルを

切り捨てることはできません。では「素の自分」、「本当の自分」とは一体

なんなのでしょうか?

 結論から言ってしまうと、本当の自分というものは、この世の中に存在していない

と僕は考えます。ただ、代わりに「理想の自分」というものが存在しているのだと

思います。

 周りの人から付けられた「肩書き、レッテル」には、自分がよく思わないものも

たくさん含まれます。背が小さいから「チビ」、太っているから「デブ」、

中には眼鏡をかけているから「がり勉」みたいなステレオタイプ(偏見)である

ことも少なくありません。(詳しくは以下の記事で)

www.life-amayadori.com

 ただ、人は自分自身のことを悪く評価することを避ける傾向にあります。

それどころか自分自身を無意識に過大評価しがちなのです。

 例えば、「お金を稼ぐ」ということは、世間ではわりと「がめつい人、お金が

全てじゃないでしょ」というマイナスのイメージがありますね。

でも、自分自身がお金を稼いでいる時に「あぁ、私ってなんてがめついのかしら」

と思う人はほとんどおらず、むしろ「これだけ働いたのだから、お金を貰って当然よ」

と考える人の方が多いですよね。自分のことが可愛く感じるのは当然のことなのです。

 だからこそ、他人から悪口を言われたり、何かを指摘されたりすると、素直に

受け取ることができなくなってしまいます。「最近太ったんじゃない?」と

言われても、「太ってなんかないわ、あんなに努力しているのに」というように、

他人からの意見よりも、自分の考えを貫こうとする傾向にあるんです。

 そのため、他人から悪く言われてしまった自分や、何かを隠したり我慢をしたり

して、振る舞いたいように振る舞えないもどかしい自分といった、いわゆる

現実の自分」と、自分はこうありたいという「理想の自分」が乖離してしまった

時、現実の自分を受け入れたくないがために、悪い方の自分を切り捨ててしまおうと

してしまいます。

 これこそが、「素の自分でいたい」と感じる原因なのだと思います。

本来はないはずの「本当の自分」というものを作り出すことで、現実の自分を

切り捨てて、理想の自分を見失わないようにしようとするのです。

 でも、そんな「悪い自分」も自分であることには変わりありません

「私ってわがままなの」「俺って怒りっぽいんだ」と分かったうえで、

そんな自分を受け入れることで、初めて人として成長できるのだと思います。

 「わがままだけどしょうがないから許してね」「怒りっぽいから気を付けてよ」と

諦めてしまうのは簡単ですが、それは自分から一時的に切り離しているだけです。

ふとした瞬間に、「なんで私って嫌われるの?」「また感情的になってしまった」と

自分に返ってきます。

 どう頑張っても、周りからの評価で作られた自分というものは、自分自身では

どうすることもできないのです。というよりは「理想の自分」以外は自分で

どうすることもできないと思います。だからこそ、「現実の自分」はどこか

他人事のように感じて、自分じゃないような感覚になるのかも知れませんね。

 時々耳にするのですが、定期的に人間関係をバッサリとリセットしたくなる人が

いるそうですね。こういうひとはおそらく、「周りから見える自分」が

「理想の自分」とたまたま一致するまで繰り返すのだと思います。過去の人間関係と

共に、「悪い自分」を切り捨てているのかもしれません。

 思考に気をつけなさい、それはいつか言葉になるから。

言葉に気をつけなさい、それはいつか行動になるから。

行動に気をつけなさい、それはいつか習慣になるから。

習慣に気をつけなさい、それはいつか性格になるから。

性格に気をつけなさい、それはいつか運命になるから。

 これは、マザーテレサが遺した言葉です。自分を変えるには、まずは自分の考えを

変えなければいけないのです。悪い自分も受け入れることが、きっとその人を

変えていくのだと僕は思います。

  ただ、世の中には「悪い自分」を受け入れるだけではどうしようもないことが

あります。セクシャルマイノリティであることを隠そうとする自分、

病気であることを隠そうとする自分、バレたくない噓をつき続ける自分。

仮面を付けた自分」とよく例えられますが、まさにその通りだと思います。

 ただ、そんな「仮面を付けた自分」も自分であることを忘れないで下さい。

人はその状況に合う仮面をみんな持っていて、付け替えることで生活をしています。

 仮面をつけることは、現実の自分を一時的ではありますが、理想の自分のように

見せてくれる知恵そのものなのです。どんな状況でも陰日向なく、素の自分を全力で

オープンにしているという人は、かえって「自分勝手だ、礼儀知らずだ」と言われて

しまいます。だからこそ、現実の自分を切り捨てずに、仮面をつけることで

周りの人に、気を配ることができるというのは、それだけでとても偉いことだと

思います。ある意味仮面をかぶることは「自己犠牲」であると思います。

だからこそ、「素の自分を出したい」と疲れてしまうのだと思います。

 今でこそこんなきれいごとを言えるようになりましたが、僕も相当悩んできました。

もしも過去の自分になにか伝えることができるのならば、

 「本来の自分なんていうものはないんだ。代わりに理想の自分というものがあって、

それに現実の自分を近付けていく。そうすれば、自然に自分を隠そうとする仮面

なんて取りたくなるものだよ」

と教えてあげたいなと思いました。

ただ、悩んでくれた過去の自分がいるからこそ今の自分がいると思います。

今の自分も過去の自分も、全部「自分」として受け入れていきたいと思います。

(良かったら過去の僕が書いた「自分」についての記事もどうぞ)

www.life-amayadori.com