ゲイでノンセクシャル~人生の雨宿り~

雨ばかりの人生に、雨宿りができる場所を作りたい

「不快」への警告

 人なら誰しも不快に感じることってありますよね?

ルールやマナーを守らないといった社会的なものから、あの虫が苦手、

あの音が苦手のような個人的なものまでたくさんあります。

 ちなみに僕はマジックテープをはがす音がとっても苦手で、マジックテープという

単語を聞いただけで、喉の奥の方がムズムズしてしまいます。

この不快、気持ち悪いという感情は、実はとっても厄介なものになり得るのです。

 例えば、勝手に自分の顔写真を撮られたとき、よく「肖像権」を侵害した!

なんて言いますよね?でも、法律の世界では、実際に肖像権という権利自体が

守られるケースはほとんどないんです。

 というのも、顔写真を勝手に撮られただけでは「気持ち悪い、不快だ」という感情

しか生まないからですね。もちろん、その写真をネットにばらまいたり、悪用したり、

何度も何度も撮られたりすれば、名誉毀損やストーカー被害、パブリシティー権の

侵害などで訴えられることはあります。肖像権というのは、写真を撮られることで

発生しうる権利の総称みたいなものなんですね。

 ちなみにパブリシティー権というのは、いわゆる有名人を用いることによる

影響力みたいなもので、商品やポスター、CMなどに有名人が使われる時に発生する

権利のことです。有名人の顔写真は、写真集として売り出すこともできますし、

ポスターに使用すれば大きな集客効果があるため、別個に扱おうというわけです。

 僕らのような一般人が顔写真を勝手に撮られても、ばらまかれたり、変に加工

されたりしない限りは、不快だという感情しか生まないのです。

ただ、最近では顔認証、目の離れ具合や光彩の位置などで個人を特定できる

バイオメトリクス認証というものが浸透しつつあります。今後さらに普及が進んで

いけば、「写真をとられて不快だ」では済まされないことになるのかもしれません。

 また、LGBTを扱っていると、たまに目にするのが「同性愛なんて気持ち悪い」

「男同士で抱き合うなんて不快だ」というような意見です。

 先ほどの肖像権の時と同様に、気持ち悪い、不快だというだけでは、その人の権利を

守る根拠にはなり得ません。しかし、「不快だ」と一点張りをされてしまうと、

議論の余地がなくなってしまうんですね。

「かつて同性から、性的な嫌がらせを受けたことがあるから気持ち悪い」

「宗教で禁じられているから不快だと感じる」のように、何かしら理由があれば

対策や改善が見込めるのですが、「嫌なものは嫌」「生理的に無理だ」のように、

無条件な不快感を持ち込まれてしまうと、何も言い返せなくなってしまうのです。

 筋が通っていないという点では、ある意味クレームに近いと思うのですが、

ここで一旦、似たような別のクレームについて考えてみたいと思います。

 

「俺はピーマンが嫌いだから、ピーマンを食べるなんて気持ち悪い」

「私は赤をみるとイライラするから、赤い看板を別の色に変えてほしい」

 

分析してみると、クレームを言う人は

・自分が中心の考え方をしている

・自分自身を相手に投射している

・相手を理解しようとしていない

・原因と結論の因果関係を無理やりつないでいる

・議論に必要以上の感情を持ち込んでいる

などが特徴としてあげられるかと思います。

それを踏まえて同性愛を気持ち悪いと感じる人について考えてみると、

・自分の持つ世界観に、同性愛は存在していなかった

→存在を認めたくないという思いがあるかもしれない

 

・自分自身を同性愛を語っている相手に投射している

→無意識のうちに、自分自身が同性と抱き合ったり、愛し合っている

ような感覚になっている

 

・相手を理解しようとしていない

→加えて自分の持ちうる情報だけでは理解することができない

 

・因果関係によって、無理やり結論を出そうとしている

→自分の無知をさらしたくない、自分には非がないことを示したい

 

・議論に必要以上の感情を持ち込んでいる

→視点がミクロになりすぎる、同情や場の雰囲気に飲まれて誤った判断を

するおそれがある

 といった見えない問題点があると思います。

 学問や議論においては、嫌だと思うことを無理やり是正しなくとも、

目を背ける権利」があると思います。同性愛が嫌、不快だと感じるならば、

関わらないほうがお互いのためだと思います。信念や宗教も同じようなものでしょう。

 ただ、会社やプライベートでは目を背ける訳にはいかないこともあるでしょう。

その時は学問や議論上の問題ではなく、人と人との関係性の問題です。

「もしも先輩が同性愛者だったら?」「子供が性別を変えたいと言ったら?」

様々なケースがあると思うのですが、必要であることからも目を背けようとして

しまうことが多々あるのです。人の防衛反応として、目を背らそうとしてしまうのは

仕方がないことだと思いますが、無条件に自らの意思できっぱりと目を背けてしまう

のは、仕方がないで片付けるべきではないと思います。

「どうして人を悲しませることをわざわざ言うの?」

「どうして理解してくれないの?」というやり取りには、相手のことを考える

余裕がなく、自分のことしか考えられていないように感じます。

口で言うは易く行うは難しと言いますが、不快という本能的な感情だからこそ、

仕方ないで片付けないようにするような意識が必要なのかもしれません。

 

 他にも「不快」がもたらす問題として、「わいせつ」という似たような議論が

あります。見るからにエッチなものだと視認できて、子供の目に入らない販売方法や

年齢確認を厳重に行おうと、日本ではモザイクや黒線などで修正を加える必要が

あります。(厳密には、どこからがわいせつになるのかというとっても曖昧な基準に、

引っかからないようにするための自主規制であることが多いです)

 これに対し、裁判所(判例)は、多くの場合「善良な性秩序を害し、公序良俗に

反するから」「人前にわいせつな物を並べる行為は、性道徳に反するから」みたいな

曖昧な答えをしています。極論を言ってしまえば、エッチなものが堂々と売られて

いるのを不快に感じる人がいるから、エッチなものそれ自体が有害で不快だから、と

言っているようにも思えます。センシティブな分野であるからこそ、不快という曖昧な

感情であっても、みすみす見逃すわけにはいかなくなっているのでしょう。

 有害な物に触れなさすぎることがかえって有害であるという意見や、

善良な性秩序とはそもそも何物で、表現の自由を制限してまで守るべきものなのか

という意見、海外での規制との兼ね合いもあって、結局は道徳、社会規範のなかで

しか規制できないのだと思います。ただ、こういった法律を作ることによって、

自主規制という形で抑圧を行うこと、国としての意見を表明しているのだと思います。

(これは「規制する」以外の法律の効果の1つですね)

www.life-amayadori.com

 ただ、不快という感情の裁量の広さを、恣意的に取り込んでいるようにも思えます。

というのも、わいせつに関する基準があいまいであるのに、取り締まることが

できるのは罪刑法定主義(これをすると犯罪になって、こんな罰を受けますという

ことを、事前に定めておこうという決まり)に反しており、たまたま目に入ったものを

見せしめとして取り締まっているのでは?となるからですね。

 わいせつもそうなのですが、表現の自由との兼ね合いは、不快という感情が

付きまとうため、良し悪しの線引きがとても難しいのです。

(表現の自由については、いずれ別の記事にあげたいと思っています)

例えば、憲法違反だと主張する人は「憲法違反があなたに何か不利益をもたらして

いるのですか?ただ憲法違反が不快なだけでは?」と言われて反論できますか?

人権侵害を訴える人は「そもそも人権って何ですか?どこからが侵害で、どこまでが

許されるのですか?不快感や悲しみばかりが伝わってきて、結局どうしてほしいのか

がわからない」と言われて、すぐに説明できますか?

 たとえ一人であっても不快に感じる人がいるのならば、表現の自由を行使する前に

議論が必要になります。(もしくは行使した後に問題になるというケース)

真の平等を目指そうとすると、全てを与えるか、何もなかったことにする

という極論になりかねません。(詳しくは下の記事で)

www.life-amayadori.com

不快という感情は、どれほど不快に感じているのか、どうして不快に感じているのか、

という細部まで検討をしないと不必要に重く受け止められてしまいます。

というのも不快という感情は、

プラスをマイナスにされる:貰えるはずのお小遣いが貰えない

マイナスをマイナスにされる:泣きっ面に蜂、弱り目に祟り目

望んでいないプラスを得る:ばかでかい壺をいただく

マイナスであるように思い込む:先生からこっぴどく𠮟られた

のように様々なケースがあるのです。不快という感情を議論で扱う時には、

論点の整理や、目に見えない問題点も考慮した上で行わなければ、あらぬ方向に

進んでしまうことがあるのです。 逆に不快という感情が、論点を覆い隠してしまう

ことも多々あるため、議論のディスコースマーカーにもなり得ます。

 最近では、不快という感情に共感を求めようとする動きも増えてきています。

安倍さんへの批判、炎上商法、ヘイトスピーチなどがいい例かもしれません。

感情に流されず、その背後にあるものを見極めようとする「中立」の心が、

今後求められるような気がします。