ゲイでノンセクシャル~人生の雨宿り~

雨ばかりの人生に、雨宿りができる場所を作りたい

自粛生活で見つけたあれこれ

 コロナウィルスによって家での生活が増えて、いわゆる自粛モードという

状態が長く続いています。僕自身は家が大好きというか、異常なほどプライベートを

大切にするひとなので、自粛自体は苦ではないのですが、辛いところもたくさん

ありました。

 というのも、僕にとって「家」というのは安らぐ場所であって、

中でも自分の「部屋」、自分の「心の中」というのは絶対的不可侵領域でした。

それはたとえ家族であっても許してきませんでした。

部屋に立ち入られるのは嫌でしたし、読んでいる本、見ている動画、買ってきたもの

などを通して間接的に心の中を読まれることがとても嫌だったので、

実家では壁を背にしないと落ち着ちついて本を読むことも、携帯を見ることも

できませんでした。友達を家に招くことはもちろん、友達と連絡をとることも

極力したくなく、部活、勉強、作業はどうしてもという時以外は家でやらずに、

学校や図書館、部室で済ませてから下校するようにしていました。

休みの日には課題をするためだけに図書館にいくことも多かったです。

 ただこの自粛生活の中で多くの人は、「早く友達に会いたい」

「誰かと会話をしないと気が狂う」と感じているようで、よく電話やラインが

届くようになったのですが、それが言葉にできないストレスになっていました。

また大学の授業をはじめ、オンラインでの交流が盛んになり、Zoomやskypeといった

コミュニケーションツールが発達してきました。

 僕はこの遠隔でコミュニケーションをとるのがすこぶる苦手なんです。

自分の顔がカメラに映るのも嫌ですし、なにより相手の声色、表情、視線や

身振り手振り、声のトーンや大きさ、距離感などあらゆる部分に違和感や抵抗が

あるのです。耳元で大人数の声がなだれ込んでくるのも、自分の部屋の中で

やり取りをするのも嫌で、慣れない最初のうちは頭痛や吐き気、寝不足を

引き起こしていました。

 というのも最近知ったのですが、僕はいわゆるHSPというやつみたいで、

人よりも感覚が敏感で、ついつい考えすぎてしまう性格のようです。

もちろん社会に出てから「電話は無理なんです」「Zoomはやめてください」と

言う訳にはいかないというのは理解しているのですが、なかなか体が追い付きません。

気づけば知り合いから行方不明扱いされることもありました。

 普段なら部活をする、授業にでる、本を読む、カフェで過ごす、買い物にいく

のようなことで、感情を溜め込まないようにしているのですが、自粛で外に

出られないことと、家で本を読んだり、音楽を聴いたりするのが苦手

(部活が吹奏楽部なので、音楽を聴くことは仕事をするような感じがします。

本も、カフェや図書館、バスや電車で読むことが多いので、家ではあまり

読んできませんでした)なこともあって、

一時期はオンライン授業に出られなくなるほど病んでしまいました。

 そんな時に僕を救ってくれるものは、いつの時代も本でした。

以前にも紹介したことがあるのですが、茨木のり子さんという詩人がいます。

www.life-amayadori.com

高校の時にはじめて「苦しみの日々哀しみの日々」という詩を読んだ時から、

僕の考え方の奥底に必ずあるような素敵な詩をかかれている方です。

 病んでいる中で、なんとか気力を振り絞って授業で必要な本を

買いにいった時に、たまたま茨木のり子さんの「倚りかからずに」という詩集を

見つけて、懐かしくなっておもわず買いました。

その詩集のなかの「行方不明の時間」という詩を読んで思わず泣いてしまったのです。

人間には
行方不明の時間が必要です。
なぜかはわからないけれど
そんなふうに囁くものがあるのです

 

三十分であれ 一時間であれ
ポワンと一人
なにものからも離れて
うたたねにしろ
瞑想にしろ
不埒なことをいたすにしろ
遠野物語の寒戸の婆のような
ながい不明は困るけれど
ふっと自分の存在を掻き消す時間は必要です

 

所在 所業 時間帯
日々アリバイを作るいわれもないのに
着信音が鳴れば
ただちに携帯を取る
道を歩いているときも
バスや電車の中でさえ
<すぐに戻れ>や<今 どこに?>に
答えるために

<中略> 「倚りかからずに」より一部引用

 僕にとって本を読んでいる時間は、自分という存在や周りにある存在を

全て忘れてしまい、過去でも今でも未来でもなく、世界中のどこでもない

一番遠くて近い場所に行くことができるような感覚です。

本を読んでいる間は誰にも話しかけられることもなく、一人でいても

からかわれることもない。まるで世界から自分がいなくなってしまったかの

ような感覚になり、自分を取り繕うことなく、心をむき出しにすることができる

唯一の時間でもあります。

 自粛生活が長く続いていたことで、自分の世界のなかに自分しかいないという

勘違いをしていたようです。人と一切会うことなく生活をすることができるという

非日常に浮かれてしまい、今まで抑え込み続けてきた素の自分をさらけ出したために、

外からの刺激がかつてないほど強く感じてしまったのだと思います。

 気づけば「家の中では本は読みたくない」というつまらないプライドを

投げ捨てて、本の世界に旅立っていました。膨れ上がっていた現実への感情は、

栓を抜いたかのようにすうっと消えていくのを感じました。

 僕は法学部という一番論理的な分野にいるにも関わらず、超がつくほどの

理想家です。現実というものを一切見ようとせず、追い込まれてからしか

動くことができないわがままな人間なのです。

頭では理解しても、感情が追いつかない。痛いほど納得したのに、行動に

移そうとしない。自分の中には何人もの人格が存在していて、本当の自分はおそらく

存在していないのではと感じることもあります。

自分のことなのに他人事のように感じてしまうのです。

 だからこそ、自分という存在を忘れる時間が好きなのだと思います。

本を読むこと以外にも、誰かのために何かをする、映画を見て感情移入する、

歌をうたって普段は使わないような言葉を使ってみる、眠って夢を見る……

そうやって普段の自分でなくなった時の僕は、驚くほどに輝いているのです。

自分で自分のことがうらやましいと感じてしまうのです。

 茨木のり子さんの詩は、そんな僕が持っていたはずの本来の僕を、

優しく思い出させてくれました。つらい時は目を伏せてもいいんだよ、

現実なんてみなければいいじゃない。そんな声が聞こえたような気がしたのです。

この詩を読んでから、ようやくいつもの僕になったような感覚になり、

とても懐かしくもありつつ、しっくりくるのを感じました。

非日常であるからこそ、日常を忘れてはいけないのだと改めて実感しました。

今過ごしている一秒一秒が、将来「そんなこともあったね」と笑い合うための

種なのだと思います。

 誰かが言い始めた「自粛することが誰かの命を救います」というきれいごとも、

正しいことなのかもしれませんが、そうやってわざわざ価値を見出いだそうと

しなくてもいいと思います。「今日も一日無駄に過ごしたけど、

今ぐらいしかできないことだから仕方ない」と許す心が広まってほしいな、

そんなことを考えながらこの記事を書いて。

まとまりもなく、長ったらしい文を読んでくださった方に感謝します。