ゲイでノンセクシャル~人生の雨宿り~

雨ばかりの人生に、雨宿りができる場所を作りたい

社会が生み出す「犠牲」の危険性

 今、レイシズム(人種差別)が問題となっていて、デモや抗議の声が

世界中で挙げられています。日本では表立って声が挙げられていないので、

どこか他人事のように感じる方も多いと思いますが、僕はそうは思えないのです。

日本には声にならない差別というものがまだまだ存在しているということを、

ときおり感じます。数ある差別の中から、僕自身が当事者であることもあって、

セクシャルマイノリティを一つの例として取り上げたいと思います。

 時代の流れの中で、数多の先人の犠牲と努力によって、LGBTへの理解は大きく

進み始めています。パートナーシップ制度が全国に広まりつつあり、

LGBT就活、レインボーパレード、ダイバーシティを掲げた広告など、

少しずつではありますが、変わろうとする社会を見ることができます。

 ただ、名古屋の「同性パートナが事実上の配偶者にあたるのか」という訴訟が

目新しいですが、まだまだ未発展な部分や、反対意見も根強く残っているのも

事実なのです。三重県ではアウティングを禁止する条例の制定が進められていますが、

これは現に差別が存在していることの裏返しであることが伝わってきます。

 セクシャルマイノリティへの差別に向き合い、闘っている人たちは

いつの時代もセクシャルマイノリティの当事者たち本人に他なりません。

「自分たちの権利を自分たちで掴み取る」というのは、確かに当たり前のこと

なのかもしれませんが、そもそも差別を生み出しているのはマジョリティである

強者ではないのでしょうか?

 セクシャルマイノリティを応援する人のことをわざわざ「アライ」という言葉で

区別しなければならないほどに、他人事でしかないのでしょうか?

私たち当事者は差別を受けている側にも関わらず、どうして世間に訴えかけて

差別をなくしてもらうようにお願いしなければならないのでしょうか?

そんな疑問がふと僕の頭の中をよぎったのです。

 今まで信じてきた「当事者と非当事者に分けて考えること自体が間違いで、

みんなで手を取り合って同じ「人間」として問題を解決しよう」という理想が、

途端に虚ろな戯言のように聞こえてしまいました。

 セクシャルマイノリティについて知識や実態を発信しているのは、

いつも当事者です。それは当事者のほうが詳しいからではなく、非当事者側が

知ろうとしてくれないからなのではないのでしょうか?

パートナーシップ制度やアウティング禁止条約など、LGBTの取り組もうと

してくれるのはいつも地方自治体です。それは国よりも実態を把握していて、

きめ細かな支援をしやすいからではなく、支援に反対する人の割合が相対的に

少なくなるからではないのでしょうか?

 自らのセクシャリティをオープンにして、活動をすることが

どれほど勇気ある行動なの当事者には痛いほど分かります。

でも、多くの非当事者にとっては飛び出した杭でしかないのです。

時には当事者からも、代表面しないでほしい、波を立てずに大人しく

していてくれと批判を浴びることもあります。

差別というのは本当に犠牲なくして解消し得ないものなのでしょうか?

 もちろん当事者自らが行動することには大きな意味があると思います。

セクシャリティの存在を知られないことには、問題に取り組むことすらできません。

しかし、LGBTの存在をアピールする時期はとうに過ぎ去っていると思います。

弱者だからといって強者に頼りきってはいけません。

しかし、強者が動かなければどうにもできないことも確かに存在しています。

 僕が法学部だからというのもありますが、特に法律分野において

己の無力とみじめさを痛感します。法律を制定する国会、

法律にのっとり活動する内閣は、選挙という多数決の下にあります。

そして、多数派によって選ばれた議員は、自らを選んでくれた多数派の人たちの

ための活動を行うのです。

(最近は無投票が多数派なので、機能が麻痺しつつありますが……)

 更に、司法というのは判例という過去の裁判結果の積み重ねに支配されています。

LGBTの存在はここ数年でようやく知られるようになったため、判例の多くは

LGBTを想定されていないものなのです。改正が加えられているとはいえ、

日本の法律は明治に作られたものが現役です。法律が悪いのではなく、

法律を扱う解釈を変える、必要であれば新たに追加する必要があるのは当然と

言えます。法律そのものを変えてしまうと、判例が役に立たなくなること、

今まで築き上げた法体系、法理論が崩れてしまうことなど、

いわゆる「法秩序が乱れる」というおそれがあるのです。

先日の名古屋での判決も、判断をするための基準があまりにも少なすぎたが

ゆえの結果だったのだと思います。

「夫婦別姓ですら認められない日本では、同性婚など夢のまた夢」

これが僕の正直な意見です。パートナーシップ制度は、ある意味実験的な

取り組みのように感じます。これも飴に見せかけた犠牲なのかもしれません。

 貧困問題、ストーカー、離婚、労働基準、環境問題、人種差別など様々な

社会問題がありますが、どの問題も犠牲が生まれてしまった事後的な処理という

形によって進展するというケースばかりです。

(個人的には、LGBTの本、ジェンダーの本が社会問題のコーナーに並び続ける限り、

事態は進展してくれないような気がします)

もちろん社会問題に取り組む以外にもやるべきことはたくさんあり、

多数派が優先されることも頭では理解できます。

ただ、だからといって放置していい免罪符にはなりません。

真の平等は達成できないかもしれませんが、達成しようとする姿勢すら

見せることなく正当化しようとされると、感情が許しません。

今回のデモも、そうやって溜まりに溜まった行き場のない感情が

爆発してしまったのだと思います。

 その感情を有益なものへと昇華しようと考えた人たちが、

勇気を出して行動を起こしてくれているのでしょう。

黙ってみていることができなくなった少数派の人たちが、多数派が負うべき

責任まで背負いこむようになってしまったのかもしれません。

「弱者のために、私たち自らのために」と行動することが、

犠牲をささげようとする社会のシステムに飲み込まれないよう、

 警戒しなければならないと強く訴えたいと思います。